『物と美』と題したこの一冊は、嘗て上梓した『茶と美』、『民と美』とを

合わせ、三部作を成すものである。予てから計画されたが、この選集を編む

に当たって、始めて一冊の形を取るに至った。併し私が今まで物の美しさに

就いて書いたものを集めて見ると、意外に量が多く、ここには恐らくその半

分余りを収録し得たに過ぎない。同じくこの選集で再編される『茶と美』は、

旧版とは違い、新しい材料を加えるために、その中にあった物に関する数篇

だけを、この『物と美』の方へ回して、統一を計った。

 この一冊の最初に掲げた二、三の論篇は、序文代わりに物への見方に就い

て記したものである。又「知る」ことより「見る」ことが、物の理解にとっ

て如何に大切だかをも述べてある。他の凡ての篇は、何等かの物を対象とし

て、その性質を述べたものである。その多くはこれまで等閑にされてきたも

のか、又は浅く受取られてきたものを題材にしたのであるから、何等かの意

味で新しい考察の報告とも云えよう。併しその多くは学術的な記述ではなく、

寧ろ価値内容を主題としたものである。二、三の例外はあって、例えば「土

瓶考」と題したものの如きは、幾許か学問的に取扱ってある。こういう扱い

方を凡ての題材に加えることも亦意味があるであろう。特に民器の分野は、

誰も当分は研究しそうもないので、材料を集め得る今のうちに、調査をまと

めておく必要があろう。

 私は美の問題を取扱う場合、常に形ある物に即して考えを述べるべきであ

るのを強く主張したいのである。何故なら「美しさ」は、「美しき物」を離

れてはないのである。単に「美しさ」という如きは抽象的なことで、「美し

き物」に即してこそ、考える具体的な重味が出よう。違う言葉で云えば、物

が見えるということが、美を見るということなのである。物が見えないで、

美しさを述べても、内容は空であろう。それ故見て後に始めて真に知り得る

ので、知っているからとて、すぐに物は見えぬ。又知ってから物を見ようと

しても、道順が逆で、真に物の美に触れることは出来ぬ。

 この簡単な真理が多くの人々に、はっきりしないためか、美しさを論じる

ことに雄弁であり乍ら、物の美しさの見えぬ学者、好事家などが非常に多い。

物に接して、それが真に美しいのか、醜いのか、実は至極曖昧で見当がつか

ぬのである。それは物の美しさが見えていないことの告白に過ぎない。

 私は有名な美学者で、てんで美しい物の見えない人を知っている。美に就

いての学問は詳しいが、物の佳し悪しは分からないのである。私は焼物の歴

史で名声を馳せている専門家で、何が真に美しい焼物なのかが全く分からぬ

人を知っている。一番悲惨な証拠を、そういう人達の編集にかかる焼物図録

に見ることが出来る。大した美しい物を掲げるかと思うと、同時にとてもつ

まらぬ品をも載せる。つまり玉石の差別がつきかねるのである。それ故美し

い品にも醜い品にも、同じ程度の賛辞を捧げる。こうなると佳い品を賞めて

いる場合でも、果たして本当に分かっての上か、甚だ心もとなくなる。なぜ

こんな悲劇が起こるのか。「物」を見る力がなく、只「事」に詳しいに過ぎ

ないからである。

「美しさ」に関しては、凡て「美しい物」に即して語られねばならない。そ

れ故美しい物を美しいと見得る眼の力、心の力が足りぬと、凡ての美論は空

論に落ちる。醜い物を美しいと見たり、又美しい物を、美しいと感じなかっ

たり、又「事」に詳しければ、「物」をも正しく見ていると思い誤ったりす

るのは、決して「美しさ」に触れていない証拠である。「物」が見えなくて、

「美しさ」を述べても意味が淡い。

 これ等のことに無関心なためか、今までの美術史や工芸史には、見当違い

の解説が多い。つまり物が見えての上でないために、認めるべきものが認め

られず、認めるべきでないものが認められ過ぎていたりする場合が多い。従っ

て若し美の歴史が、物に即して記されるなら、今までの歴史は大いにその面

目を改めるに違いない。私のこの一冊は、主として今まで認められていない

物のうちの幾つかを対象としているに過ぎぬが、それでも歴史を是正し又増

補する何等かの新材料とはなろう。

 この頃特に思うのであるが、醜い品が甚だしく殖え、而も醜い物をまで讃

美するようになったのは、末世のしるしに外ならぬ感がする。多くの僧侶は

末法観にその宗旨を建てたが、今や美論も亦末法観の上に建てられねばなら

ぬ事情に立ち至っていよう。それには観念的に美などを論じても役に立たぬ。

須らく現実の物に即して、一々具体的に説かねばならぬ。形而上を高々と説

ける黄金の時代は過ぎて、今はどこまでも形而下の物を媒介とする現実の説

法が要るのである。幽玄の美など抽象的に説いても、末法の世には迫力がな

い。疑う余地のない現下の形ある物を指差して、道を説く者が出ないと、末

世の人間には通ぜぬ。「物の美」を敢えて語り出す所以がここにあるのであ

る。つまり物を通して美を語り、物と美との深い結縁を述べることに、私の

任務があるように感じられてならぬ。

 本書の編録に就いては、特に吉田小五郎君の配慮に浴し、その校合などは

主として田中玲子、浅川園絵両姉に負うところ、共に深く感謝。


   昭和廿九年七月廿日
                        柳  宗 悦
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